Yuko's Room ('15.01〜'15.06)

転依(てんね)

明けましておめでとうございます。

心穏やかに新年を迎える事が出来ましたでしょうか?

元旦は、寒さ厳しいながらも、晴れて良かったです。
初詣へ行く途中、ひょんなところで初日の出を拝む事も出来ました。
そんな訳で今年も気分よく詣でたのですが・・・なんと一転、おみくじは“凶”!

さすがに嫌な気分~

「今年一年の悪いことを今日出しきったから、これから良くなるのみ」
「謙虚に事にあたりなさいというメッセージ」
帰路歩きながら、神様からのメッセージを何とかプラスに受けとめようと
するものの、正直無理があり・・・

お正月の間、本棚から思い付くままに手にした本をパラパラ・・・

そこで目に留まった言葉が「転依(てんね)」です。
依りどころを転ずるという、仏教用語です。
暗い心から明るい心に転換する~不変不満で受けていたよりどころを、
喜んで感謝する心に転換する。
本来私達は、見よう聞きよう、受け止めようにより、
感情を自由に転換出来る智慧を持ち合わせている・・・

比較的プラス思考の私も、何事も喜んでとはいかないな~
そうか、その事を神様は私へ伝えたかったのか・・・
すると、気付きのきっかけとなった「凶」に心底感謝でき、
なんだか、大ラッキーな年に思えてきました。

今年は、周囲の嫌な言動や事象に左右されそうになったら、
「転依」という言葉を胸に、感情の方向転換を試みます。

〜2015.01〜 

感情のままに

今年、「転依」をテーマとしてスタートさせた私は、意識的に感情と向き合っています。
そうする事で、すこ~し変化が現れました。

何かの拍子にネガティブな感情が湧き出てきた時、
その感情を排除しようとしたり、どこかに押しやろうとしなくなったのです。

例えば、「怒り」が訪れた場合、
「私は今、怒っている」と、心の中で何度か呟きます。
そして、身体の感覚をチェックします。
鼓動が早くなっていたり、どこかに力が入っていたり・・・
深呼吸をし、暫く寄り添います。

それから、問いかけです。
「この怒りは何にたいして?」
「私の何が傷つきそう?」
「何に縛られている?」・・・

そうこうしているうちに「怒り」は何処かへ。

今までも、「どうして?」と自問自答することはあったのですが、
どうして×××なの!と、自己を責めていたように思います。
「 何 ? 」と問いかけることで、たとえ答えは見つからなくても、
こんなにも私の事を理解しようとしてくれている人(私)がいると思うと、
私に守られているという安堵感から、
敢えて守ろうとする必要がなくなってきました。
そう、ネガティブな感情は、自己防衛のシグナルだったのです。

コントロールしようとせず、ただ寄り添っていればいい・・・
感情そのものに、善悪はないことに気づいたのです。
勿論、いつも自分を取り戻す時間的余裕がある時ばかりではないですが、
コツは掴めてきたようです。

 
「悲しみも、喜びも、感動、落胆も、つねに素直に味わうことが大事だ」
by本田宗一郎

〜2015.02〜 
ミモザ:花言葉「豊かな感受性」

あたかもよし

子供の頃から、とにかくカッコいいものが好きでした。

人であっても、物であっても、
「かわいい」よりも「カッコいい」方へ目が奪われがちでした。

恰好(格好)いいという言葉が、

恰も好し(あたかもよし)=それもまたよし

という禅語が語源であると知ったのは、数年前。
その時、なぜそれほどまでにカッコいいものに心惹かれるのか、
わかったような気がしました。

「困難が目の前に現れた時、
それもまたよしとして回避することなく受け入れよ」
という先人の教えらしいですが、この潔さに憧れていたのです。

若い頃は、分かりやすい外見から入っていたのでしょう。
私が絶えず求めていたのは、もっと内面的、精神的な恰好良さだったのです。

ところが、現実の私はと言えば、ジタバタしたり、心乱れたり、恰好いいからは程遠く、中々涼しい顔をしてというわけにはいかないのですが、
それもまたよしです。
少なくとも、いつも受け入れようとはしているのだから・・・と
年々、己に優しくなります(笑)

「天を楽しみ、命を知る、故に憂えず」by易経

〜2015.03〜 
メキシコの桜「ハカランダ」

これから

4月になり、通勤の途中で、新入社員らしき人達の姿をよくみかけます。
少し前まで、就職氷河期と言われてましたが、
今は、少しは状況が良くなっているのでしょうか。
入りたい会社から、入れる会社へと、シフト変更するのも否めませんね。

そもそも入りたい会社があればいい方かもしれません。
何がやりたいのかわかっているだけでも。

自分の事でありながら、一体何がしたいのか分からないまま、就職しなければならない時期がきたから、ご縁がある会社へという人も多いのでは。
私も何時からか、仕事は生活のための手段になってしまい、
何がしたいとか、何が好きだからということより、
何がより稼げるかということに思いが集中していました。

それはそれで、良かったのだと思います。
働かざるおえない状況だから頑張ってこれたという一面もありますから。

ただ、そうなればなるほど
「何がしたいのだろう?」
という問いかけからは益々遠退いて行くのです。

最近、それがなぜなのか、気づき始めてます。
余りにも思考が先走り過ぎたのではないかと。

社会人となって33年経ち、
漸く自分がやりたいことに、気づける気配を感じてます。
それも、「一人静かな時間」を、少しずつ持てるようになってきたお陰です。


これから〜これから〜

〜2015.04〜 
自宅そばの公園にて

ひま

余計な事を考え過ぎるのは、暇だから・・・
思い悩む暇があれば・・・

私達は、どこか忙しくしていないといけないような、
そんな風潮がないでしょうか?

私は今、「暇」の素晴らしさを感じ始めてます。
仕事、家庭、コミュニティ・・・

「今、何が優先?」

自問自答しながら、常に何かをしながら、
頭の中では、次の段取り、シュミレーション・・・
いつも時間に追われていたように思います。

なるほど思い悩む暇はないものの、思考はふる可動。
いくら段取りよくしても、空いたスペースには新たな事。
それも大半は相手あっての事です。
自分のペースで事が進む事の方が少なく、段取りの修正ばかりしていると、
ついイライラ・・・

しかし、少しずつ、一人静かな時間(暇)を持てるようになってきて、
次の事、先のことよりも、今の事に、集中出来るようになってきました。

感じる事に、意識が向くようになり、
考える事から解放されていく心地よさを感じてます。
中々いい感じです。

考えすぎない為にも、暇(閑)は必要なように思います。
そうやって、己が満たされれば、自然と相手にも優しくなれるものです。
イライラすることも少なくなってきました。
暇があれば、時折、思考をストップさせ、鈍りかけている五感に働きかけ、
閑を満喫してます。

「幸福は暇の中にこそあると思われる」byアリストテレス

〜2015.05〜 

「親しき仲にも礼儀あり」と申します。

どんなに長い付き合いであっても、
私達はどこか節制を保ちながら人付き合いをしているものです。

ところが、こと身内となると、中々そうはいかないようです。
夫婦、親子、兄弟、互いに遠慮がないからなのか、
ついどかどかと相手の領域に入り込んでしまったり、
言葉もあまり選ばずに余計な一言を発っするかと思えば、
感謝や労い、謝罪の言葉は、言わなくても分かるだろうと、省略してしまったりと。

同じ屋根の下で暮らしていたら尚更です。

少なくとも、相手との境界線を見定め、ドアをノックしたり、
たとえ多くを語らなくても、
「ありがとう」「ごめんなさい」といった一言は、
省かないように、礼を尽くしたいものです。
たとえ身内であっても、私ではないのですから。


朝、太陽の日を浴びると、とても元気になります。
太陽のように、世界中の生物に元気を分け与える事は出来なくても、
せめて身近に接する人に、礼を尽くして光を、
そんな思いが、時折忘れそうになりながらも、徐々に幅を利かせてきました。

 
「一隅を照らす これすなわち国宝なり」by最澄

〜2015.06〜 
つゆ草:花言葉「敬う 尊敬」
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